飛躍

何か不連続な進展を表現すると飛躍とか突破という言葉になりそうだ。この不連続の進展を考える。

突破と飛躍の言葉の違いというより、この場での違いを考えてみる。突破は何か停滞する状態から急激に進展する感覚がある。飛躍は途中の省略のような感覚がある。つまり、突破には連続を前提にして、急激な変化に不連続のような感覚があるのだろう。だから、不連続だけの意味で使うなら、飛躍ということになりそうだ。

ここで、突破に含まれる停滞という意味を考える。何かの追求を目指して努力するが、なかなか結果を手に入れることが出来ない状態が長く続いているとするなら、その状態を変化させるのは不可能を知るか達成することになるだろう。

不可能と目標に近づくことは異なるだろう。目標に近づく実感を持つと不可能という感覚にはなりにくいと思う。例えば、世界の平和を不可能と考える人もいるだろうが、その立場から見ると平和に近づいたという感覚にはならないかもしれないが、近づいたと実感する人からすれば不可能という感覚はさらさらないだろう。

では、近づくことが達成する努力に対して何らかの作用があるのだろうか。それはあるかもしれない。ただし、上の通り連続が前提になるだろう。

連続ではないということは、どのようなことだろうか。それは継続的ではないということだろうか。別にそれに限定する必要はない。何らかの概念で連続ではないということにしよう。

ここで意味がありそうなことは、飛躍の仕組みということだろうか。仕組みが解明するなら、すごいことだ。ただ、直感的には既存の基盤を疑うことと遊び心だと思う。

既存の基盤を疑うとは、既存の考え方や認識の前提を疑うことで、新しい考え方や認識を獲得するという意味だ。序破急に通じるかもしれない。

遊び心は、何らかの抽象的な意味での道具を使用して工夫すること自体を楽しむことを指す。ここでの楽しむとは、感情としての楽しむという意味を拡張するもので、何らかの達成感のようなものと考える。

仮に、飛躍の仕組みが上の二つとするなら、前者は正攻法で、後者は搦め手を攻めるような感じがする。予想しやすいとか努力方法がある程度確立しているとか、そんな感じと、結果が出るとは限らないような冒険の印象との対比のようなものだ。

多分、どちらも必要なのだろう。両方を同時に行うこともあるだろう。どちらかの選択を決定することと、どちらか一方しか認めないこととは異なる。決定自体は同じかもしれないが、選択は認識を排除していない点で異なる。その違いは、失敗の判断に如実に現れると思う。

社会の諸問題の解決に、突破とか飛躍とかは期待しにくいが、不可能ということもないだろう。事例から学べることもあるから、劇的な成果にならなくても確実な一歩に結びつくと期待したい。その一歩が結果的に飛躍的な進展の開始かもしれない。