真剣に遊ぶ

今朝の日経の経済教室の多層の考え方は同意する。特に、最後の部分には意を強くする。開放的であることが交流を広くして参入が容易になると考えている。ただ、フリーライドには注意が必要だ。その加減が難しい。

同じ面に地方の民活の話があって、多層の考え方を適用すると中央は下位層のサービス提供の役割に思える。この辺りは、ある程度まとめて考えてみたい。

前回の続きのようなことを書く。

遊びという言葉は適切ではないかもしれない。要するに、工夫する余地があるものは沢山あって、その工夫を生み出す方法として工夫の道具で探索する行為のことを指す。だから、無目的のようなものなので、先の言葉を使っているにすぎない。

道具は、具体的な道具や生産設備かもしれないし、数学や実験結果かもしれない。ここでは抽象的に考える。

目的の明確な道具は、その目的以外の用途の発想はなかなか出てこない。しかし、目的以外の用途の可能性が否定されているわけではないだろう。だから、例えば自動車を移動手段というより、何らかの遊びや別の用途に使うことは現実に存在するのだろう。

脳の中の概念は関連する概念が豊富だと発達すると考えている。道具を使い尽くすことで、その道具に関する概念も発達すると考えられる。明確な目的の設定は、目的の達成によって概念の発達を阻むと解釈する。

この抽象的な意味での道具に関する概念を発達させる努力は、楽しむことでより一層努力に励むことを促すと考えられる。この楽しむことで発達の効果が高まることも既に触れている。

つまり、道具について関連する概念を発達させること、その発達する効果を高める楽しむという感覚と合わせて、発達するから楽しめる効果を含めて相互に作用しているようなものだろう。

この相互効果を括って、真剣に遊ぶことが様々な発見に結びつくと期待する。

子どもは自然と遊んでいるという解釈が一般的だろう。しかし、成長途上の脳にとって一般的な生活に必要な概念の獲得を必要とするが、その効率的な方法が遊びというものという解釈は上の理屈の通りである。

楽しむこと自体を目的にすることを否定しているわけではない。しかし、偶然のような発見には、この真剣な遊びというものによると考えている。

例えば、数学を楽しむということは想像しにくいかもしれないが、恐らく歴史的な数学者は楽しんだと想像する。