不完全情報での整合性

人間は不完全な情報で決定する。この判断での整合性について考えてみる。

不完全な情報で判断する前に幾つかの想定をすることがある。幾つかの想定をしないということは、情報が不完全という認識がないからだろう。日常生活では、ほとんどが不完全情報だが慎重に様々な想定をすることは稀ということで理解出来る。

真理の探求においては、仮説をたてることが多いだろう。これも情報が不完全で想定していると解釈出来る。

神話の類も似ている。説明出来ない現象を神話で説明の代替にしているようなものだろう。

人間には、説明出来ないことを何らかの理屈で納得するbiasがあると考えている。雷を神の怒りと捉えることも、そのbiasによるものと考える。

また、すっきりした整合性に快の感覚があると考えている。美は象徴的なものだろう。これはbiasなのか、わからない。しかし、性質のような強い傾向は確信する。

これらから、情報が不完全な状況で整合性のある仮説をたてて、より整合的であればある程納得して決定すると考えられる。不完全であるという認識があれば、すっきりした整合性であっても仮の理屈と捉えることが出来る。しかし、決定後の実行を重視すると、仮定であることを失念しがちであることがこのことで説明出来るだろう。

強固な理屈であればある程、疑う可能性が低くなる。

これらから考えるのは、仮定であることを失念してしまうことで、何かを考えるということと、仮定のまま進行して仮定を疑う機会というものだろう。

仮定を失念すると、失敗の経験は失敗のまま放置されてしまう。これ以外にも、何か考えることがあるかもしれない。

仮定を疑う機会がもてると、情報が精緻になれば修正することが可能になるだろう。また、不完全情報での判断の適格性を向上することが可能になるかもしれない。

これを実際の場面で考えてみたいが、実は強く念頭にある話がある。それは、関心を持って情報に接する対象のある金融機関の元トップの話にある。旧陸軍では部下に対して説明することが訓練されているらしいというものだ。不明なことも説明するという意味だ。

開けっぴろげというか、開放的というか、その率直な物言いは好感を持って眺められる。その意味で新聞や雑誌に発言が掲載されると読むようにしている。もっとも、今生きているかは把握していない。

それはそれとして、旧陸軍の慣習は、軍隊の要請という理由だろうが、権威を重んじるような感触もある。この習慣は、円周率を都合のよい数値にするような事態につながると感じて危険視してしまう。上官が黒を白と言ったら…みたいな話だ。

脱線してしまったが、権威という要素を絡めると話が複雑になる。しかし、今回の不完全情報という話題では、権威という要素で判断の強制という状況は容易に想像出来るだろう。法は決めごとだが、真理を歪曲することもある。真理という正しさと、法の正義との対決という状況もそれになるだろう。昔、米国のどこかの州では円周率を4にしたことがあるらしい。

仕事の上では不完全情報での判断ばかりみたいなものだろう。推測して、その推測を土台に計画をたてることは、ある意味当然のことだ。計画を推進する立場として、仮定の強制という構図という解釈も成り立つだろう。この仮定を疑うことが出来る立場が誰であるか、という見方がどこかで必要なのではないだろうか。

そして、無批判の仮定は局地的な神話になりやすいと予想する。白を黒として進行する責任を持っていると感じるなら、もしかしたらその黒としての遂行は適切なのかもしれない。単に白に見えるだけということもありえるという解釈だ。ここに武士の上意下達の適切性があるように思える。

情報は、関係者でも非対称性のようなものがある。そこまで考えると複雑になることが理解出来るだろう。

不完全情報も学習不足や経験不足という理由もあるだろう。その不足は関係者で濃淡がある。上司部下で不幸な事態になる例とも言えるだろう。複雑な社会ではありえることだ。これに権威を絡めると一層複雑になるだろう。まるで小説のネタになりそうだ。