復元力

数学の国際的な組織に期待。また途上の国への配慮は流石だと思った。

若い人向けの言葉に考えさせられる。三つあるが、とりあえずひとつに絞って考える。

若い人向けということであるが、若いと思うのは自由だ。百歳でも構わないだろう。言葉を発する人への敬意とか、理由は様々でも、その言葉を深く考えることで得られることがあるかもしれない。あるという確信を持っているが、以下に述べることは無用なのかもしれない。

心が折れるようなこと、状況を受け入れることが困難なこと、に対して立ち直って以前通りに復元出来る力としよう。そのような事態にならない保証は誰に対しても持てないだろう。事前に備わっていれば、対処も比較的容易になるだろう。

必要性を理解するとして、重要なのは方法と考えるかもしれない。それはそれでわかるが、了解する気持ちにはならない。方法は各自が見つけることが適切と考えるからだ。

なぜ、各自固有な方法が適切と考えるのか、その理由は、効果に固有な要因があるということだ。何か夢中になることに意識を集中させて、記憶から締め出すような効果が大きい人もいれば、過剰な感情の発露で感情要因を和らげることが出来る人もいると思う。それぞれの自然な方法もあるかもしれないし、経験を積んで努力する人もいるだろう。

だから、必要性の大きさと経験に因果の相互関係のようなものもあると考えている。復元を必要とする経験が多くても、長い時間をかけて立ち直る人もいて、その経験だけからは復元方法の必要性を感じないかもしれない。しかし、立ち直りの早い他人を間近に観察すると、何か方法があることを確信する機会になるかもしれない。そのような、経験と感じる必要性には、因果が相互に作用しあう関係にも見える。

経験を語るなら、宇宙を想像している。人間の存在の小ささと、その逆に一個体としての生物の偉大さを同時に想像するのだ。どちらも実感するだけに、その乖離具合の矛盾のようなものが笑うしかないことに、何かを初期化するような働きがあると感じている。

宇宙を感じる経験は、どこかで意味があるかもしれない。日本の大きさを実感するなら、その大きさから地球の大きさも実感出来るだろう。地球の大きさを実感するなら、太陽を一周する大きさも実感出来るだろう。そのような想像を繰り返せば、宇宙の広大さの実感のなさに実感することになるかもしれない。秒30万キロメートルから、即座に一光年が実感出来る人は少ない。これを想像し続けるなら、実感するのかもしれない。

いや、数値の大きさを財布の中身や口座残高の実感と、政府債務や総生産規模への感覚で比べれば理解しやすい。馴染みによって感覚は違うだろう。太陽まで何分かかるという数値に馴染みがあると実感出来るということになるだろう。

そして、目の前にハエがいるとしよう。そのハエのことについて、人類はどれだけ解明出来ているだろうか。ハエの大きさで空中に停止する機能を実現することがいかに難しいか、それを想像するだけで人類の無力さを実感するのだ。まして、そのハエの一個体毎の固有な違いを認識する方法すら確立していないのだ。ハエすら理解出来ないのに人間を理解することは、もっと難しいと考えたい。

だから、他人の人格への誹謗は、その他人の理解のなさと考えてしまうのだ。何か具体的な事実への批判なら理解出来るが、人格は違うという理屈なのだ。

その極端な事実に対して、理解というより実感しようとすると、許容量を超過しているのか、もう笑うしかないと考えてしまうのだ。これが初期化作用のような働きがあるのは、多分固有な理由だろう。他の誰かにも効き目があるなら、それはまた別に深刻に考えてみたい。

いや、言いたいことは、方法には固有な見つけ方が必要ということだ。だから、登山や寺の屋根に登ることで試すこともあるかもしれない。

寺の屋根の話は、あるマンガが出典だ。

また、別な考え方もある。特別な方法を経ないで復元するということで、今朝の話は直接にはそのことを指していると思う。何かをするということは批判されることが当然という感覚が身についているからだと思う。だから、今回、話は意味がないのかもしれないということなのだ。