平易な所信表明

X線の実験は、やはり何か見つかっていると思う。報道されていないのか、見逃しているのか、わからない。歓迎すべきだろうが、わからないと悩む。確かに、ニュースのソースは日経新聞NHKのラジオくらいだから、見逃している可能性はあるけど、大きな扱いにならないのが合点がいかない。どこか勘違いしているのかな?

詳しく読んでいないが、今回の所信表明演説は確かに平易になっている。これは歓迎したい。

二点の理由がある。ひとつは、広く伝わること。もうひとつが、内容が空虚になりにくいことだ。

かなり以前に、義務教育課程修了を前提の説明が必要という主張をした。まさか、それを読んだわけではないだろうが、義務教育課程修了を前提にするくらい平易であることが国民に周知する必要ということを書いた。

極端に言えば、行政全般は望ましいだろうが、専門分野では正確を期す必要のある用語を使わざるをえないだろう。しかし、どこか広く伝えたいことについては、平易な説明が必要だと思う。短期的効果は少ないかもしれない。しかし、格調高いと、どこか他人事と感じてしまいがちになることを防いでくれると期待する。

その上で、自分で内容を判断して批判したり、期待することになると思う。その他人事ではないことにつながると思うのだ。

また、平易と対極を格調高いものとしよう。比較すると、格調高い言葉は抽象的になりがちで、何を実行するのか伝わりにくいことになりやすいと考える。

例えば、世界平和という言葉は、それ自体は理解出来るだろうが、何を実行すると解釈するだろうか。平和の為に、ただ祈るという行為なのか、諸外国と考えを共有する話し合いを行うのか、まるで区別がつかないだろう。

実は、その平易な説明をすることで、肩の力が入り過ぎになりにくい効果があると考えている。逆の格調高い話では、肩に力が入りやすい。ただし、問題に取り組む熱意は、どちらが伝わるかは受け取る者によって異なると思う。熱意こそ伝えたいということがあっても不自然ではないだろう。普段使う言葉になるのは自然なものと考える。

内容については今回は触れない。今回は、この平易であることだけを考えたい。

人間の身体で考えると、平常の活動と緊急時の活動では異なるだろう。問題や活動の大きさと緊張とは直結しないだろう。問題が大きければ大きいほど、じっくり取り組むような見方もあるくらいだ。アフリカのことわざに、急いで歩くなら一人で、遠くまで歩くならみんなで、みたいな言葉があるのを思い出させる。

平時も緊急時も同じような扱いをする音楽指揮者を想像すると、どこか不自然と感じるだろう。単調な指揮と応変な指揮を想像するとわかりやすい。

そんな、どこか力の加減を制御する力量が伝わる場面があるのだと思う。どこに現れるか、それは予想出来ない。

だから、簡単に不用意な発言をしてしまうのだ。これは、自動車の運転と似ていると思う。脇が甘いというか、注意が足りないというか、要するに、余裕を持ちながら注意を怠らないことが自然に身についているかどうか、に尽きると考えている。自然にとは、無意識に出来るという意味だ。

意識しなければ注意出来ないなら、考え直す必要があるだろう。注意ばかりで余裕がないことも問題なのだ。それが自動車の運転と似ていると考えている。

特定の誰かに対してではないが、自然と過去の有名な失言を思い出す。

その道の熟練者は、他人の最初の行為で力量の判断がつくと考えている。ここでの、その道とは武道とか技巧とかを念頭においているが、かなり広い範囲で当てはまると思う。会計の数値を指摘する内容で力量が判断出来る経営者も実在するのだ。

つまり、そこには関連する概念の拡充効果のような働きがあると考えている。だから、同じように政治の場面でも、国民の判断材料を適切に提供することが必要だということなのだ。それが、平易な言葉だということだ。ただし、それに限定する必要はない。

限定の必要はないかもしれないが、映像の一場面は安易かもしれない。少しの努力で最大の成果みたいな追求は歪みを感じる。やはり、方法は正統的であることがよさそうだ。

国民は国民としての目の前の努力でいっぱいいっぱいなのだ。しかし、それでも政治に無関心であることもおかしな話だろう。ここに少ない時間での情報収集が要請されている理由が理解出来る。その少ない情報収集での的確な判断を考えると、供給側、つまり政治家の姿勢が構図として理解出来るということだ。

その構図で媒体としての報道と需要側としての国民を考えることになると思う。何を報道しているのか、何を受け取るとしているのか、ということだ。

問題はないのだろうか。問題を感じるが、感じるのも感じないのも自由だろう。その自由を他の国の状況で改めて認識することになるのかもしれない。