水道事業

今朝の日経の社説が気になる。研究の誤りも研究者が明らかにすべきということについてだ。

研究者の矜持としての意味なら、理解出来る。光より速い実験結果も、多くの目で検証した結果として好感を持つが、一方では矜持として問題という見方も成り立つだろう。これは難しいと思う。

税を投入する観点は理解するが、その制約として直ちにその結論になることに違和感がある。要件を税投入制約とするなら、満たす制約条件は様々にあるだろう。その様々な思案を経ているような感触が持てない。

割と最近のことだが、保育園に親が度々クレームを持ち込んで、ついには役所にもクレームを持ち込んだら、園長が焼身自殺した事件があった。個別として詳細に把握しているわけではないから、この件での何らかの結論を出せるわけではない。しかし、問題が生じたら、状況を精緻に把握しないで持ち込まれたままの結論で対応することは、それはそれで問題と考えている。

研究の一つの問題で、全ての制約になる愚があるかもしれないことを考えるべきだろう。先端の研究では、すぐに覆るという分野では、特に配慮すべきと思う。

よく気がついたと思う。むしろ、そちらに好感を持った。

国会での中小企業の取り上げは、もしかしたら賞に近いかもしれない。特に、メディアで流れるとその効果があるかもしれない。ただ、多用は慎むべきだろう。

さて、水道事業の解説記事があった。実って欲しいものだ。

飲料水は、空気中の酸素と同様に必須なものだ。だから、食品のように代替可能ではないから、独占の危険性を特に警戒すべき事業の代表だろう。日本の途上国への貢献でも、井戸水はよく知られている。

つまり、独占の弊害の回避は当然だろう。経済学に親しんでいる人にとっては常識かもしれないが、知らない多くの者にとっては、そのようなことも親切に説明してくれる役割が欲しいと感じた。ああ、また国会への不平が出そうだ。

だから、政策の結論を出すことも重要だが、結論に至る課程としての前提知識からの説明が欲しいと考えている。なぜなら、中学で代替市場の考慮も含めた独占の弊害を勉強の対象にしているとは思えないからだ。思えないとは、調べてないことを言っている。

そして、供給側の規模の効果も一般的な説明になるだろう。

いや、研究者とか政策担当者は当然知っていて、そんなことを説明資料に載せる意味を感じないだろう。その感じない人間同士で話し合いしているから、他人事のように感じてしまうのだと言いたい。

結論を出す場の参加者が理解出来ればよいということが現状だとすれば、結論を出す場を観察する人間の理解も必要だと言っているのだ。

それが、関心を持ってもらう努力の一つの方法だと考えている。

どこかおかしいのだろうか。特別な飛躍の論理はないと思っているが、おかしいなら対案を出せばよい。
また、は不平に行きそうだ。