田園

前米国大統領の話は流石だと思った。結果論という意味は、結果が出る前の不完全な情報で判断する時点を暗黙に対比させているのだと解釈した。擁護を選挙の時期に行う意味に深いものがあるのかもしれない。わからない。

日経最初の頁のコラムに納得する。今までもやもやと感じていたものを代弁してもらったような感じだ。

外国人の指摘は、日本人が気がつきにくいことがあるので参考になる。このコラムはその典型例ではないだろうか。

安易に結果を求めていると、細やかな配慮が行き届かないという因果関係はあると思う。その現れがあちこちの同じ風景なのだろう。

箱ものも安易に求めることの代表のようなものだろう。作ることが目的で、利用することが目的ではないという意味では代表と考えてよいと思う。

この逆を考えてみた。つまり、作ることより利用することを目的とするという本来的なものだ。

一面同じ種類の花で埋め尽くすというものを考えてみた。

ひまわり畑とか、芝桜の畑とか既に存在していると思う。それを真似して、別の種類の花ばかりにするというものだ。

ある種類の花はどこどこにある。別の種類の花はどこどこにある。という様々な花が各地にあって、特定の花が好きな核になる人が集まってくると期待する。

ある理容室では、女性客の割合が少なくなったら、店に花を置くことで女性客割合を増やすらしい。それだけ、女性には魅力的なのだろう。

花の種類がばらけていると、咲く時期もばらけるから、全国各地を時期をずらして訪れることが可能になる。希少種もあると、世界中から核的愛好家を呼べるのではないだろうか。勿論、研究者も期待出来るだろう。

これに耕作放棄地とか農業を絡めることがよいのか、複雑になるからよくないのか、どちらであるかはわからない。ただ、荒れ放題の土地に比べれば、手入れの行き届いた一面の花畑はきれいと感じるだろう。

子どもにとって、人工的な何かよりも強く記憶に残ると思う。成人に達しても残る記憶は、人生を豊かにするだろう。

この場合、手入れが決定的な課題になると予想する。除草は重労働だ。しかし、自分たちの手入れで美しい花畑を作っているという楽しみという面もある。どのように考えるかは多様だ。

まあ、商売としては観光が主役だろう。花栽培も可能性がある。

手入れの工夫が必要と思う。