公開講座

IMFファンドへの流動性確保の話は、よくわからない。事態への備え自体は歓迎すべきだろう。しかし、想定する仕組みが記事からは読み取れなかった。きっと、解説が出るだろう。

米国大統領への元部下からの批判の記事があった。注目したのは、わからないというところだ。妙に説得力がある。

受賞者の話を読んだ。思いつくままの感想を述べる。

ひとり荒野を行くのは、アフリカのことわざとされる遠くに行くなら多くの人と歩く、という言葉と対極に思える。確かにそうなのだ。多分、どちらも正解なのだろう。しかし、成功を信じていなければ難しいと思う。行き先の設定も歩き方も自己判断だから出来たのではないだろうか。これが他人からの指示のようなものであれば、成功の信憑性を判断しようとするだろうか。疑いながら行動するような整合性のない状況認識を維持することは難しいと思う。

だから、疑えば仕事の効率が格段に落ちるだろう。これが、研究開発だけでなく、不確定要素の多い高度な知識を要する職業で必要とされる裁量と考える。

報酬については、より一般的な見方があると考えている。例えば、想像だが警察の刑事が犯人を捕まえても捕まえなくても、報酬に違いはないだろう。しかし、それでも犯人検挙に励むのは被害者を念頭におくからなのかもしれない。それだけなのかもしれないのだ。

極端な話、莫大な報酬とこの刑事の報酬の違いをどのように考えるだろうか。納得することは、なかなか難しいと思う。

一般的な見方から離れて研究に特化して考えることがよいのか、一般的な見方で深く考えることがよいのか、多分、それぞれによさがあるのだろう。それぞれによさがあるなら、一般的な見方での取り組みが見当たらなければ、取り組むことが必要ということだろう。

教育については、意見は傾聴して各自の解釈になればよいと思う。聞いて浮かんだ考えは、大学と大学院の関係と公開講座だ。

多様な環境を目指すなら別の大学の院に進むことがよいのではないだろうか。それが当然のようになれば、玉石混交にならざるをえないだろう。純化より雑種化だ。これはこれで話があってもおかしくないと思う。

印象的だったのは、京大の名物教授が、京大と東大の違いを、京大が玉石混交で、東大が平均的な高さのように表現していたことだ。意味深だ。

社会人向けを想定した公開講座は色々な意味があると思える。目的を複数にすることではない。

大学の経営の観点は勿論ある。一般社会への貢献の観点が最大だが、講座を受ける社会人の熱意に触れることも、何らかの影響があると思う。これも期待したい。

そして、熱意を目的とするならば、何らかの試験があってもよいだろう。資格と単位も自由な設計、例えば十年くらい継続して卒業資格を取ることがあってもおかしくないと思う。

十年というと教育課程も変化するだろうから、対応は複雑になる。なかなか難しいことではある。

実務優先に限定する必要はないが、確かインドに何人か日本政府の人間がいるから、そんな最新状況を講座の対象にすることがあってもよいだろう。そんな目玉を考えることこそ大学に求めたい。

インドに限らず、現地の需要展望という情報提供が目的の講座も考えられるだろう。制度や社会情勢だけでなく、産業そのものも当然対象だろうが、逆に企業要望を開拓することもあるかもしれない。

卒業生に対する何らかの提供があってもよい。今回の受賞でも大学の存在が目立った。このたくましさは歓迎すべきだろう。

大学の位置づけは大学自体が自ら考えることで、対象は学生だけでも、限定しないことでも、どちらも戦略的になればよいと思う。

また、すごく気になるのは、ノーベル賞が注目され過ぎることによる何らかの弊害だ。例えば、数学のように対象にならないと、学生が避けることも考えられるだろう。この観点を強調するつもりはないが、無視することもおかしいと思う。

逆に戦略的に考えるのは、経済学だ。これは、泰斗の存在が大きすぎて諦めの空気があるとしたら問題だろう。やはり、米国への留学が必須なのではないだろうか。そんな戦略があってもおかしくない。狙って出来るものではないが、これだけ自然科学部門に偏ることも問題ではないだろうか。何が問題なのだろう。わからない。青木さんなら、わかるのだろうか。