落選

金融緩和の出口の連載が始まった。これは、現在の最大の課題の一つだろう。

課題を分けると、先進国とそれ以外、途上国、新興国に大きく分けられるかもしれない。分けられるとは、ある程度原因と対処が共通するという見方を指す。しかし、顕在化していない課題もあると思う。鋭敏な感度で嗅ぎ取る人間の存在は、貴重だろう。

さて、政治の話だ。外国の首脳、しかも時代の異なる政治家と比較するのは酷かもしれないが、国民の一人としての立場なら、その権利はあるとみなす。こうあって欲しい政治家像というものが、国民一人ひとりにやはりどこか潜んでいるのだと思う。部分部分を集めて理想像を作り上げているかもしれないが、部分だけやなんとなくの全体像かもしれない。実際の姿と違っていても、現在に求める要件みたいなもので考えてもよいのではないだろうか。

まあ、前置きは置いといて、前にも触れて、もしかしたら違っているかもしれないが、チャーチルサッチャーに求めている。何を見ているか、よくわかっていないが、多分困難を乗り越えることを感じているのだと考える。わかっていないのに、この説明は説得力がない。

何かを主張しているわけではない。政治家とは何かの話の前に、いわゆるbias情報として提供した。

で、その政治家とは何かの話だが、色々な意味があると考えている。だから、政治家の定義めいた説明では抽象的過ぎて、意味を成さないと思う。

仮に言葉にしたところで、それより大きな問題を前にすれば、せっかくの言葉の意味がないと思えるのだ。

問題の前に、問題の捉え方の話が手っ取り早いと思うので、その捉え方の話をする。

問題を認識して、その症状を解消する努力、原因を解消する努力、原因を生む環境を整備する努力、といった具合に、対策が直接的から迂遠な方法まであるという見方をしている。それは、大概の分野に共通するもの、つまり同形と感じている。そして、人数という観点では、直接的努力ほど多数で、迂遠的ほど少数になりやすいという認識でいる。それは、経験からだ。

で、その捉え方で、政治ではなく政治家の話に移ると、やはり環境に注目してしまうのだ。環境とは、選挙というより落選や将来候補まで含めた政治家生成過程としての環境を指す。

実は、多様性重視の立場からは問題の認識までが領分で、対策めいたものに触れることはまずいと考えている。しかし、ここでは対策というより問題の認識を強調する意味で踏み込む。

政治家も報酬の原理からは逃れられないとすると、個々の報酬認識が異なることが望ましいとして停止せず、報酬の歪みを矯正する必要があるだろう。

選挙の当落の報酬差が大きいと、当選に努力するから歓迎という見方は適切だろうか。報酬差が少ない方が適切という考え方が否定出来るとは思えないのだ。

当落重視の議員活動と本来的議員活動が一致するならば否定出来るかもしれない。しかし、一致すると言えるだろうか。この観点で見ると、まずは本来的議員活動に勤しむのは、正規議員という制約が前提にあるからではないだろうか。

議会での発言や投票は正規議員とすることを逸脱する意図ではないことは容易に理解出来るだろう。議会以外の活動こそ、本来的議員活動とみなすと先の広範囲な政治家になる。このような環境こそ必要なのではないだろうか。

これが迂遠な見方になるから、なかなか多数には通じない。難しいのは、方法ではなく認識と感じている。