鉄道標準化

昨日のクローズアップ現代は宇沢先生だった。やはり、日本語説は無理やりのようだ。あの中だけで考えると、思考の及ぶ範囲が年齢とともに広がったと理解した。でも、どこかで深く理解しなければわからないような感触だ。

ホンダのブラジルでの二重課税は、還付制度がないことを考えると制度整備が必要だと思う。先進国同士の方法が適用出来ないという意味で、貿易保険と同じような構造に思える。企業からすれば、脱税の意図がないことの意味で預託金のような拠出で完了させることがよいような感じがする。預託先とか難しいが、貿易保険のように企業の責任を明確にして、とかの要件を整理することから始まると思う。今後、アフリカとかへの進出が予想されるだけに、企業の努力に集中する環境は大切だと思うのだ。

ブラジルが米国の緩和終了と同時に利上げしたのは、取り組みとして歓迎だろう。やはり、中銀には人が欠かせないと思った。

さて、今朝の経済教室を読んでいて、高速鉄道について考えさせられた。整理しよう。

大きな絵としての原理では、製品やサービスが進化することを前提にすると幾つかの層に分かれて層と層の関係が標準化される方向に向かうことで層と層での市場を形成すると考えている。つまり、自動車で言えば、モジュール化が一定の標準化のような働きをして、接続する部品市場の技術的あるいは周辺の情報の開放で供給側の部品製造企業、需要側の組み立て企業の市場参入と予測や計画を容易にすると考えられる。また、技術進化の為の教育や研究という役割としての大学や研究機関は、知識集積の源泉のようなもので、かなり生産拠点との空間的あるいは交流を通しての距離が短いことが推定される。

ということを大きな絵としての前提とするならば、日本を含めて国の視点からみると、知識集積の源泉に魅力を感じる国と、単に導入だけに魅力を感じる国に分かれるのではないだろうか。さらに、企業の観点での思惑があるから、進化の経路の予想は難しい。しかし、標準化での恩恵は多大だろう。

ゼロ戦は発達としては完成されて、それ以上の向上が難しいという話を聞いた。要するに、部分的進化は必ずしも全体を向上させていないということのようだ。このような袋小路の発達経路を避ける方法としては、一つには向上余地を準備する方法があるだろう。その自然な方法が標準化なのではないだろうか。

技術進化の速度としては、情報技術産業が典型的とするならば、開放的な標準化は実績として確認出来るだろう。

鉄道で言えば、例えば、車輪が標準化されることの恩恵は多大だろう。車輪製造企業からみると、車両製造企業というより保守企業が主要な顧客で、保守企業との車輪市場が成立するから、情報の開放性によって参入予定企業も市場参入の判断が容易になり競争が担保されるだろう。

ということは、例えば、インドを想定すると、大学設置に魅力を感じるならば、その範囲まで視野において、その道筋が読めることと、雇用を重視した国内産業の充実は魅力と考えられる。その観点で戦略を考えると、他の国際企業との国際標準化の協力を前提に、導入の提案を行うことが考えられるだろう。

運輸産業は安全を重視するから、標準化は安全の観点でも必要になると思う。安全技術が運輸運営企業で共通化する恩恵は予想しやすいだろう。陸続きの国境での接続を容易にすることも考えられる。

このように、標準化を軸にする戦略は魅力に思えるのだが、どうなのだろうか。

ある企業の創業者が、技術導入の成功の理由を権威がなかったことに求めていた。もし工場長が権威を感じていたら、導入予定の技術に抵抗していただろうという話だ。これはこれで、ある意味どこでも見られる風景に思える。誇りを持つよさと同時に弊害もあるのだろう。

相手が魅力に感じることが何か、それを相手から聞き出さないとわからないこともあるし、相手が不在でも予想出来ることもあるだろう。その違いが説明出来るだろうか。一括りに成り立つ理由を求めるのは難しいと思う。だから、試行錯誤するのだが、相手が明確ならば聞くことにためらう必要はないだろう。

営業の役割には色々あるが、顧客の購入に関する情報を収集する役割も主要な一つだと思う。購入に関する情報とは、価格だけという考えはいかに発想が貧弱かを示しているようなものだろう。そこに工夫する余地を見いだすことが打開の一つの可能性があると思う。

そんなことを考えて解説を読んだが、工場移転は移転先が地方だろうと国外だろうと、跡地側の問題は変わらないことを考えている。跡地として考えるから難しいのかもしれない。

大きな絵としては、産業の知識高度化という方向は確からしいと考えている。だから、製造も高度化する方向での展開と、製造以外の産業への移行という話になるのだが、言葉としてはわかるが、その実感がない。だから、解説のサービス化もわかるのだが、限られた企業としてしか感じられないのだ。否定しているわけではない。

仮に、公需として考えると、建設と等しい見方が多数だろうが、研究と教育こそ公需の主役になるべきではないか、と考え始めている。まだ、確信してはいない。

簡単に言えば、教育は社会人向けの再教育と実業研修のようなもので、研究は百年単位の将来への布石みたいなものだ。再教育という言葉には、よくない印象があるから別な言葉がふさわしいが、要するに高校あるいは大学教養以下の講習が簡単に受けられることで、社会に必要なものならなんでも、みたいな感じだ。数学を基礎から学ぶことは、きっと役に立つと思う。原子力を題材にしてもよい。下手な建築物を残すより、よっぽど経済への恩恵があると思うのだが、違うだろうか。

研究は成果を確実に残すことが肝心だ。失敗も、残すから価値があると思う。放漫な管理が問題のような気がしていて、その管理の方法を確立していくことも必要だと思う。途中でも構わないというくらい実質的に踏み込んで研究の方法を探らないと認識を共有出来ないように思えるのだ。形式に拘る愚のようなものを感じるということかもしれない。

具体的な数値で効果を予測しないと、説得力はないだろう。だから、確信が持てない。