原子力運転

非正規雇用が増えるという理由で反対しているようだ。これは一理ある。最低賃金と似ているところはあるので、確実なことが言えないという意味で一理ある。

整理しよう。

派遣については、単純労働と専門的知識労働では異なると考えている。単純労働が最低賃金制度と似ているところは、雇用を保護する面と雇用機会を失う面の相反するような性質があると考えているからだ。改正で、派遣労働だけが増えるなら失業が減るという見方になるし、正規雇用が非正規になるという見方で反対しているとしたら、元々単純労働を想定していることが伺えることになるだろう。専門的知識労働での正規から非正規への転換はないとは言えないが、積極的になる利点が見えにくい。

という見方で整理すると、正規から非正規への転換への不安よりも、正規と非正規を同等にすることを考える方が本筋のように思える。しかし、国会では、それとは異なる点でおかしなことになっている。それは、国民が判断することだから、ここでは言及しない。

量的緩和策の波及効果についても、確かなことは言えないだろう。現状から数値を収集していると思われるが、経路が重要だ。結果論で判断しても、判断が分かれるのではないだろうか。

デフレも解消出来るという前提に立つのと、その前提を疑う立場では、現状認識と処方が異なるだろう。どの点を重視するか、の違いに思える。

経済学とは何か、ということについても違いがあると思う。社会的課題の認識と解決の手段という程度に考えているが、子どもたちに対しては、情けは人のためならず、という言葉を理解出来る勉強という説明がわかりやすいと考えている。

消費税増税は、増税そのものよりも、政治家全体への不信感という問題の方が大きいと考えている。要するに、票が獲得出来ることには熱心だが、政治そのものへの責任を感じているか、ということだ。それは社会保障を含めた話になるだろう。それをどこかに置いて、増税決定か延期か、という目の前の話にしてしまうことで逃げている印象があるということだ。逃げずに正面から取り組むことを国民は望んでいると思う。だから、逆に言えば、増税か延期かよりも、見通しを語ることを待っているのかもしれないのだ。

ギリシャが、また何か怪しくなっているが、ギリシャの場合は賢人内閣を作ることが出来た。日本で作ることが出来るのだろうか。タイやエジプトで起きるようなことは想定しにくいが、いざとなれば正常な手続きで賢人内閣が作れるようにしておくべきなのかもしれないのだ。

さて、原子力についても似ているところがあると思う。安全についての提示だ。これには元々、国民への情報提供と国民の判断が本筋と考えているが、その構図になっているとは思えないのだ。専門的知識というものへの一般的な扱い方を確立していないことが、正面を向いた取り組みになっていないと考えている。

だから、ある意味では規制委員会が可哀想に思えてしょうがない。なんというか、担当者任せの構図に見えてしまうのだ。

例えば、隕石が国土に落下して被害となる確率は零ではないだろう。積極的に零ではないと主張しているわけではない。計算根拠と計算結果で確率を示すことは可能だろう。その情報提供と国民の判断が本筋とするなら、情報提供の方法を整備することが政治の決めることではないだろうか。正当な過程を省略して安全を宣言することになるから、政治の役割を間違えていると思えてしょうがないのだ。

ここで吠えてもしょうがない。

原発稼働についての心配はきりがないが、設備そのものより運転と住民交えた訓練だと考えている。訓練は、稼働前を前提にしているかもしれないが、実際には避難経路とかの準備が必要なはずだから、稼動後の方が望ましいかもしれないのだ。

どの手段で、どの時間内で、どこに、どの経路で避難するか、ということを予め個々に決めておいて、初めて避難する確信がもてるだろう。そこまで現実的な情報は時間経過とともにに変化するから、一度では不足だろう。

運転は、仕事に対する責務だけでは危ないと考えている。恐らく、誇りも同時に必要で、その誇りを感じるから、様々な想定から様々な必要を自ら見いだしていくと思うのだ。

再生可能エネルギーの制度設計への反省から被告席という言葉を自ら発するのと似ていると思う。そんな言葉に感心するが、運転も同じで、意識が高いと自ら責任ある行動をとると思うのだ。

それをなくして、単に義務だけを付与すると、やらされ感が意欲を減退させて、平常稼動に油断することを懸念するのだ。

というよりも、福島の場合、新聞記事からは、そのような構図が読めるということなのだ。どこに失敗があると認識するか、そこに失敗への予断があるかもしれないと考えてしまう。

もっとも、この自主的職務意識は一般的に共通することだとは考えている。しかし、これはこれで別で整理したい。

少なくとも、運転関係者の人事異動くらいは、責任ある人間が誇りを感じるような儀式をするようなことをして欲しいものだ。