課題解決目的

日曜版で、80年代生まれを扱った記事があった。これを読んで好ましいことと感じたが、経済的には直接の数値として現状過少になると思う。

社会的課題解決目的起業家が数値化される付加価値向上を目的とした事業に取り組めば、恐らくそれなりの数値を発揮すると思う。だが、それで放置される問題は残ったままだろう。これを考えてみたい。

起業の内容に関係なく、起業に必要な資金調達としては、金融市場の需給を無視することは難しい。無視出来なくはないかもしれないが、その制約に応じた調達可能量になるだろう。

起業の時点での判断として、リスクとリターンだけを情報の領域とするなら、狭義の金融市場に従うから、それなりの確実性と収益性が求められることになるだろう。

ということは、判断材料としての情報に他の領域を持ち込むことで金融市場の競争に勝ち残れる可能性があるということだろう。それが、例えば、収益性に課題解決評価を含める考え方があるだろう。他にもあるかもしれない。

ここに判断における情報領域の範囲拡大を期待する根拠がある。そのようなことを考えながら読んでいて、その方向での起業家の出現は、同じ方向での理解者も多いことが伺えるということだろう。そのような傾向を感じるのだ。期待が多いかもしれないので、甘い考えなのかもしれない。

しかし、かなり定着は堅いと思えるのは、支持される書籍や映画、テレビ番組、マンガというものに現れていると感じるからだ。明確な方向があるというより、様々な楽しみ方という意味での多様性があると思えるのだ。

例えば、マンガで言えば、従来通りの英雄的主人公もいれば、ダメダメな主人公もいる。普段は平凡以下なのに、いざとなると変身して超人的活躍をするというものも勿論あるが、変身せずにダメダメなままというものも結構多いのだ。

これらに他人に同調するという流れよりも、自主的判断というものを感じるのだが、そのようなものを期待しているというbiasがあるからかもしれない。まあ、根拠もない感覚のようなものだから、結論とせずに、可能性としておこう。

ただ、読み終わってから考えるのは、判断の最適化範囲の拡大は、薄っぺらな主張を鵜呑みにしないということだ。

これを理解しやすくする為、極端に考えてみたい。

政治家の薄っぺらな意見に不信感を持つと、従来の政党を支持せず、比較して自分たちが信じられる政治家を支持することが考えられる。これが、些末な理由が異なっても、大まかには世界史上での政党政治への不信感みたいなものと同じかもしれないのだ。

さらに、極端なことを言えば、政党政治に不信感を感じる純粋な若者が、正当な手段では無理と感じると、歴史の出来事のようなことを起こしてしまうのではないだろうか。

極端なことを主張しているわけではない。単に理解の助けの意味で極端にしただけだ。

零細企業の経営者は、肌感覚で倒産を常に意識しているだろう。つまり、危機感を持つ経営感覚の持ち主の典型のようなものだ。この危機感を持つ経営感覚の持ち主としては、例えば、創業者は持っているだろう。

では、優良企業のサラリーマン経営者はどうだろうか。破綻を意識する危機状況を経験した経営者はどうだろうか。

そのような問いを、今の政治家で考えると、どうだろうか。それを、若者たちがどのように感じているか、という問いなのだ。

質疑を静かに眺めているが、静かなのは了承の意味とは限らない。そこに危機感を持った意識で思考していると、若者たちが感じるとする根拠はあるのだろうか。政治を諦めてもどうにかなっていると思っているだけかもしれないのだ。

優良企業が、いつの間にか破綻する理由は色々あるだろう。しかし、危機感があればどうだろうか。長寿企業の経営者はどうだろうか。

零細企業の経営者から学ぶことは多いと思っているが、学ぶことがないと思う自由もあるだろう。しかし、学べる機会を放棄するのは、もったいないと思ってしまう。