知行合一

スマートシティーの国際規格は大賛成だ。気になるのは、自動車の充電規格の統一失敗から学ぶことがあるということだ。

私の履歴書を読んで、ひとまとまりの理解が体系的学習効果を高めることをさらに確信した。前回、零細企業経営者から学ぶことがあるとした。零細企業もひとまとまりの理解の対象という意味では同形なのだろう。

ものごとの理解には様々な理解の仕方があるのだろうが、ひとまとまりの理解もその典型的な一つだと思う。どこかを増やすと、別のどこかが減るという関係を字面で理解する程度の深さと、本能的実感で理解する程度の深さでは、現実での対応に相当の違いがあると思う。

努力すれば果実が獲得出来るという関係を疑われない為にも、その環境を整備することが必要なのは、上の理由によるだろう。公正な努力が報われないと実感してしまうことが問題なのだ。この点は別の機会で整理したい。

さて、読んで思わぬところで出会った言葉が、今回の題なのだが、言葉の正統派としての解釈を批判ととられずに願っている異端的解釈を述べる。

脳の中の概念は、裏づけとなる根拠を持たないで強化発達してしまうことがある。その理由には色々あるだろうが、例えば周囲の意見を無批判に受容することで強化傾向をさらに強める効果があると考えている。これを日常感覚の言葉で言えば、例えば風評に流されるようなことに相当する。

以前の説明で言えば、空虚な包括概念みたいなものになるだろう。何か別の概念で体系化されていると、さらに概念は強化されるが、強化される概念は空虚の可能性は残る。

つまり、行動というより現実、知識というより脳の中の概念、という理解の仕方だ。異端的解釈ということが理解出来るだろう。

現実という根拠を持たない概念を否定しているわけではない。それはそれで意味があるが、限界を理解しない状況を批判しているのだ。

根拠を持たない概念で意味のある典型例は、フィクションだろう。想像の世界という前提があるから限界を承知していると言えるだろう。

しかし、フィクションではないかのように、つまり事実であるかのように表現すると、他者は根拠を確認せずに事実としての情報として保有する可能性が高いだろう。

この場面が、どのような場面であるかに依存するが、不幸な事態に進行することがあるかもしれない。その連鎖に危惧する。

場面は仕事としてみれば、未確認情報を確認済み情報として作業を遂行することの危険性として考えればよいだろう。もしかしたら、そのような未確認情報で遂行する仕事を危険と考えて、知行合一という言葉を大切にしているのかもしれない。

別の解釈としては、現実の事実から知識としないことを戒める意味もありえる。未経験な事象を認知したにもかかわらず、従来の知識の枠内で無理に整合性をとろうとすることへの批判ということだ。これも捨てがたい。

定着した解釈を尊重することは基本的な姿勢なのだが、別の解釈を模索することも楽しみとしてありえると考えている。他人に積極的に主張する意図はないが、楽しみ方としてなら未知の解釈もあってよいのではないだろうか。

少し踏み込んで言えば、根拠から遊離した思考には批判の余地があると考えている。何々主義というものは、その代表のようなものだ。例えば、資本主義という言葉がある。これを説明出来るだろうか。ここで言う説明とは根拠を指す。仮に、資本という言葉を事実としよう。では、資本主義とはどのような根拠に基づくもので、何を主義としているのだろうか。

これは、資本主義という言葉が周知されている前提で、その言葉が使われている実態があることを批判しているわけではない。多くの場合、共産主義と対比する意味があるだろう。だから、その文脈で批判しても意味がないだろう。

通用しているから言葉が事実であるということではないことを主張しているだけだ。この辺りは誤解されそうだ。整理してからにしよう。

それにしても、やはり人間は面白いと思う。日本語だからなのだろうか。文章の意味だけでなく伝わってくるものがあるのは書き手に何かがあるのだろう。と思った。