ロボット課題

今朝の日経の解説の一つにある通り、日本人は会社への不満を我慢しがちだ。多分、いざこざやもめ事を嫌う文化的背景があるのではないだろうか。

ある有名な創業者が、社員の不平をカーブの滑りに喩えていたような記憶がある。違って記憶しているかもしれないが、タイヤの性能が高いと速い速度でカーブを曲がれるが、限界が高いと限界が破れたときが大きいというようなことだったと思う。別の何かと混同しているような気もする。

日銀の会見を要点で読んだ限り、落ち着いたものだ。その意味では、落ち度の一つとしたことは否定されたようだ。

あまりにも正々堂々と正攻法に徹しているから、正攻法に慣れていないことがよくわかる。それは、搦め手を攻める方法が常態化しているから、ということが窺える。

まず、野党議員は野党で共闘することだけを最優先に主張している人の言葉を聞くべきだろう。慌てふためいて、本来認識すべきことを見失っていることに気づかされると思う。その気づきこそ重要なことを歴史、特に戦前の政党の歴史に学ぶべきだろう。

ここでの書き込みから情報として獲得すべき知識の類ではないと思う。自ら考えて理解する知識ということだ。勝手な思い込みこそ邪魔な障害ということにも気づくと思う。

それで気づかなければ、どこかの何かが問題なのだと思う。ここでは親切な説明をしていないから、それが理由かもしれない。

さて、ロボットの特集が連載されていて、対象領域の広がりを感じる。何か、新たな段階に進化したようなものだ。

今までは、非現実的な機能の実現というような取り組み姿勢が当然で、それは決定的に重要な開発過程は、機能実現、つまり、どのような部品とどのような組み立てという設計と製作という流れが当然だった。現在でも、設計と製作はしっかりと開発過程の主流の地位にあるだろう。

しかし、この設計と製作の生産性が向上すると、決定的に重要な過程、つまり、競争の主要戦場が移動すると思う。それが、この特集で特徴づけられていると思う。そんな課題洗い出しが出来やすいのも、様々な分野と交流しているからということが、特集から想像出来る。この交流を育む環境が素晴らしいと思う。多分、ロボットだけの話ではないのではないだろうか。

よく異文化交流ということが言われるが、単純に異文化の情報を獲得することや、考えの進め方の違いを自らの進め方の参考にするという話だけではないのではないか、と考えていくことが出来るように思える。

ものの捉え方として、比較すると、出発点と終着点がそもそも違っていたり、決定的に重要な過程が違っていることで、違いが浮き出てくると思う。

そうすると、過程そのものの発達には、何か共通点があるかもしれない。それは、もしかしたら、科学技術の経営学かもしれない。

どうしても、目の前の作業に意識が集中してしまいがちになるが、それを俯瞰的に見ると、共通点が見つかり、より生産性が向上するということを期待したい。