ロボット

ロボットの定義がある。その中で、人間に危害を与えないことというものがある。これを考えてみる。

危害というものは、時代に関わらず同じことと言えるだろうか。仮に、人間への傷害というものに限定するとして、ロボットの行動の影響を限定することが出来るだろうか。

自律的に稼動する前提なら、あらゆる状況を考えて、いささかも危害を加えないことと定義すると、途端に色々なことが破綻すると考えている。

人間でも事故を起こす。しかし、その事故の可能性が否定出来ない限り行動出来ないことになる。

具体的に例を挙げよう。

人間が近づいた状況で行動すると、大地震の可能性があるので、振動によって危害を加える事態が想定される。これを否定することは、どのような根拠があるのだろう。

危害は、身体に限定しない。心理的な傷害を含めると、さらに複雑で困難になる。

このことは、危害ということについて何らかの定め方を求めていることになるのではないだろうか。

現状では自律的なロボットは過渡的に存在する。つまり、自律とは程遠く限定した稼動と言えるだろう。そして、製造と技術進化には熱心だが、自律稼動を前提とする場合の何らかの定め方の必要性を感じても、遠い未来のように扱われて理解が得られてないように思える。

確かに、ロボットの技術的専門家だけではないだろう。色々な分野の人間が必要とされると思う。

恐らく、まず必要なことは、何かを決めるというより、認識を共有することだろう。その意味では、継続的な議論、議論に限定しないが、少なくとも継承性は必要に思う。

哲学者や小説家は必須に感じるが、言いたいのは多岐に渡ることだ。

仮に、再生治療が進んで究極の延命の姿を想像すると、かなり近傍状況を感じるだろう。

倫理的な問題とも言えるし、恩恵の面の追求の立場もあるだろう。

もしかしたら、現代哲学は、このようなことの為に必要とされているのかもしれない。

どのような事態が想定されるのか、その想定事態に対する整理の仕方みたいなことになるから、小説家のような発想の豊かさと哲学者のような考え方の整理の仕方みたいなことが必要に思えるのだ。

直面する状況ではないからこそ、議論のようなことが必要なのだと思う。

売り上げに直結しないから社会の課題なのだろう。課題解決の方法には様々な方法があると思う。どのような立場の人が、どのように進めるか、みたいな構図に見える。