状況固定の最適化

今朝の日経の経済教室は、言いたかったことを代弁してくれたような感じがする。思うに、哲学のような考えを他国に説明することが必要なのではないだろうか。国民に説明することは日本人を前提にしているから省略されていることが多くあると思う。その省略されていることをあえて説明する意味があるだろう。感度が重要だと思う。

さて、前回までの続きのような話をしよう。

静的状況と動的状況の違いのようなことに課題があるとした。これを少し詳細に立ち入ろう。

部分としてみると、状況の変化に応じた努力の最適化を図ろうとすると考えられるだろう。変化がないと認識すると認識する状況は固定化されて、最適化も認識に応じて固定化されると考えられる。

起き得る事象はべき乗で出現することが多いが、状況が固定と認識するということは経験する事象が限定されたと認識するような方だろう。だから、起き得る事象が起こらないことではなく、認識に関わらず確率は変わらないと考えるべきだろう。

起き得る事象への対処体制としてみるなら、限定することは対処を怠る意味になるのだろう。

起き得る事象を限定した最適化は、限定で除外した事象への対処が円滑にならないと考えられる。このような事態をタコツボ化と称しているようだ。

前回の書き込みのような理由以外にも、認識する状況を固定化せずに、それに応じて努力も固定化せず起き得る事象に対処出来る能力を高めることの必要性を感じる。

短く言えば、認識が必要性を感じるということだと思う。

よくある話は、体制を少人数にして効率的としたが、起き得る事象が起きなかったことで判断した為に、少人数にしてかえって効率が悪くなったというようなことがある。これを上の話と似ていると思うか、似ていないと思うか、は個人差があるだろう。

起き得る事象という判断をどのように考えるかという設計の話と考えたのが今回の話だ。別の見方を否定している訳ではない。

経験が邪魔になることもありえる。ということだろう。