地域の歴史

消費税増税の一連の解説記事が終わった。読んで中期重視の立場を自覚した。足元に関係なく増税すべきという点と法人税減税の視点に同意する。そして、感覚が鈍感であるのは潮目の意味が字面でしか理解出来ないことでわかってしまった。もっとも、直近の数字を覚えているほど神経質になっていないからだろう。

ウィーン会議の成功の理由は新しい視点と思った。しかし、属する社会層というより、ある程度認識を共有することが出来ると解釈する。その理由なら、例えばスポーツで交流することで、重層化した交流の一端を担えると考えられる。

ラジオ体操には笑ってしまったが、似たような話を思い出す。日米で戦争したことを知らない大学生が、さらに、どっちが勝ったかを尋ねるのだ。

掲示板にジョークの長寿トピックがあって、そこで紹介したら既に知られていた。ジョークでは、ここで知られていないものを他で聞くことがないほどだ。因みに、ジョークの世界ではスコットランドはケチということになっていると記憶する。

まあ、学生運動を歴史として見る人間が多くなって、香港での騒ぎも新鮮に思えるのも新鮮だ。

現在当然と認識する様々な権利も、獲得した歴史から意義を学ぶことしか考えられなかったが、現実の外国の事例で確認することも出来るということが新鮮に思える。女性の権利も、民主的な選挙も、そして自由な言論も、外国ではまだ獲得出来ていないところもあるのに、日本では空気のように当たり前になっているのだ。この当たり前が幸福なのか、不幸なのか、よくわからない。不幸ではないと思いたいが、有り難みを感じないことが幸福とも思えない。

でも、逆にこの脳天気さは、新しい価値を生み出す可能性があるとも考えられる。制約がないということは、全く新しい概念を予感させる。昨日の新聞に新人類の話が載っていた。

それで考えるのは、例えば国際外交を全く拒絶するかのような動きに対して、この脳天気さで動画での交流を働きかける可能性があるという期待だ。暴力を認めることは出来ないが、全人格を否定しているわけではない。だから、何かを認めることは出来ると考えられるのだ。

昔、英仏の間と記憶するが、相手に数学の難問を出すということがあった。それと似たようなことで正解なら褒めることは、一つの交流の仕方だと思う。脳天気だから悠長な方法が選択出来るのだ。

より本質的には、地域の歴史を認めることが本来的に思える。自己の存在を認められることと、地域の歴史を認められることはかなり近いものがあると思う。地域に属するという意識が強ければ強いほど、効果が期待出来そうだ。

そして、この方法は地方創生にも共通するだろう。その土地の歴史に親しんでいる前提があるなら、地域外から認められることは、上の効果と似ているだろう。この地域に属する意識は、無形資産になると思う。

つまり、有形資産の形成ばかりに意識があると、本質的なものを見失う恐れがある。むしろ、果実獲得は長期的だが、確実な有形資産形成が有効に思えるのだ。どこか忘れたものとは、そのようなものではないだろうか。

72年に一度開催する祭がある。多分、参加する者は土地への帰属意識が強いと思う。これほど長いと次回は生きていないかもしれないから、次の世代への期待は強まるだろう。

かといって、似たような祭が全国各地に出来るということもないだろう。他人事感は半端ではないと思う。しかし、確実に開催する強い意欲があれば可能かもしれない。かなりの不確実性だ。

各地の歴史も、雑学の扱いではなくもっと高尚にしようとすると、どのような作用に働くか、わからない。高尚に扱うことで、より貴重に感じるか、より他人事感を感じるか、よりどちらに働くか、という意味だ。

現在の脳天気な文化を認めるならば、より他人事感に感じるような気がする。

だが、外国からでさえ認められる土地の歴史となると、貴重に扱う意識が働くと思う。

これが、一概に定まらない予想のようなものだろう。