人事評価

いつものことながら、唯一の解はない。もし、唯一解が存在するならどのようになるだろう。恐らく、評価軸方向に向かう人間ばかりになる。評価される側と評価する側に分けて考えてみても、状況把握やら理解の範囲やら、複雑で難しい。つまり、評価の客観性には限度がある。客観性の追求の悪い例は、外見的な評価で、仕事以外の話をせずに外見的に何か仕事をしているけど、実質的な成果を出していないことだろう。一見真面目に机に向かっていて、残業も多いのに、仕事の成果は低評価の例は数知れず。極端な例は、役員が社員を毎週土日出勤させるが、なんら生産的ではなく、実質的には役員のアリバイ工作の時間に過ぎないような例もある。だからかもしれないが、工場ではなく事務所での生産性には疑問を抱いている。顔の広さが仕事ができるできないの基準になるような例を見かける。仕事ができる人は比較的顔が広いが、その逆は必ずしも成立しない。つまり、仕事がわからないから他人を評価する時に外見的な何かを物差しにしていて、いつの間にかそんな外見的な物差しが人事評価みたいにされてしまっているのではないか、という疑いだ。工場の場合は、比較的に仕事の成果が明確だ。だからかもしれないが、製造業の生産性は国際的に高いのに比較して、特にサービス業は生産性が従来から低い。原因がそこにあると主張しているのではない。疑いだ。疑うことから始まる。ただし、ある局面だけで判断はできない。いわゆる部分評価と全体評価の見方で、食い違う可能性はある。例えば、全部の蟻が餌を運ぶのが生産性があるとしても、遊んでそうな蟻が短絡経路を発見してより生産性が上がるようなことだ。しかし、このことは必ずしも良いとも言えない。整理しよう。蟻の例は、部分評価で良いのは全部の蟻が運んで、遊んでいる蟻が短絡を発見して全体評価としては優れているとした。その蟻の例が必ずしも良いとは言えないのは、短絡発見を仕事として考えるのは誰の役目か、次第になる。つまり、現場に任される例が多いことを良しとするのか、作業の棚卸しを役割を配分しているか、みたいなことをどのように考慮するかだろう。このことだけで直ちにどちらか一方に優劣が決まるとは言えない。状況次第と考える。恐らく、どちらか一方の見方しかできないことが不幸な状況か幸運な状況かでも、大きく違うと思う。無能な上司と有能な部下ということも考えられる。その場合、無能な上司が無能を自覚して、有能な部下の意見を取り入れて成果を上がることもあるし、想定外の事態を引き起こして損失となることもある。一概には言えないのだ。業務の流れを変えるのは、生産性が上がる場合もあれば、想定外の状況になることもある。恐らく、業務の流れをどれだけ把握しているかに応じる。だから、無駄かもしれないが業務の棚卸しは必要とされる。システム化は、そのきっかけになる。恐らく、その整理を通して仕事での評価ができる。他人の評価ができないのは、もしかしたら業務の流れが整理されていないからかもしれない。自分がどのように評価されているかに関心があるだろうが、周囲の人間を適切に評価できるかも実力が測れる方法だと思う。感覚ではなく、説明できる根拠の有無で検証できる。