不遇反応

二人の分け前を一人が配分を決め、もう一人が承諾すれば配分通りに受け取れるが、承諾しなければ二人とも何も受け取れないという実験がある。結構有名だと思うので、説明しない。

このことから何か結論を導き出すというより、関係がありそうと考えるものがある。それは、他人と自分の境遇を比較して不遇と感じるという状況での反応というようなことだ。大きく言えば、造反有理というもので、小さく言えば兄弟でのおやつの分け前争いみたいなものだ。

だからかもしれないが、日本という国では想像しにくいことに考え及ぶ。近隣の国と比べて不遇と感じると、その近隣の国に対して悪感情を持つのではないか、というものだ。この筋立てで眺めるとすっきりと理解出来ることもある。

ことわざかどうか知らないが、生まれた時期が近いと競い合いみたいになるので距離を置くようなことも言われている。これもその構図通りなのではないだろうか。

もっと言えば、他人の自慢話を素直に聞くより、やはり悪感情を持つことが多いのも似ていると思う。要するに、他人の幸福が自分の不幸みたいなもので、逆に他人の不幸が蜜の味になるのだろう。

人間の判断は様々な要素によるから、因果関係として決定的に求めることは非常に稀だと考える。だから、上の話がかなり説得力があるとしても、様々な要素の一つでしかないと思う。しかし、他の要素を排除するなら、それなりに有意な根拠が求まると想像する。

では、この不遇へのbiasが成り立つとしたら、どのように考えるだろうか。

一つには、倫理観として知られている、いわゆる実るほど頭を垂れることだろう。

くどいが真理を求める立場としては、倫理観としての結論を無批判に受け止めることは出来ない。なので、世の中で支持されている倫理観も、何か根拠みたいなものがあるのではないか、と仮定して探している。この謙虚な姿勢も、ここに根拠があるのではないだろうか。それなりに気持ちとしては納得する。

個人という立場ではなく、国という見方も同じようなことがあるかもしれない。様々な見方のどれもが否定されなずどれもが唯一の見方ではないという観点で、見方の一つにはなるだろう。

政治的に強く主張する場合も、抑圧されている少数派であることが多いと思う。だから、声なき多数派が軽視されやすいとも言える。つまり、biasを仮定して受け止める側が判断の偏りに警戒すればよいということだろう。

よくある状況は、優位な立場で無意識に結果的に抑圧していることだろう。不幸な構図だが、優位な立場にある者が注意すれば認識出来るとも言える。

具体的な状況を想像すると色々と思い浮かぶ。それだけ一般的なことかもしれない。

謙虚という言葉で、どのような状況を想像するだろうか。その具体的な状況のほとんどは、この構図が成り立っているような気がする。しかし、自然に対すると、この構図通りとは少々異なるように思える。

抑圧しているかもしれないという観点で自らの行動を見直す機会くらいはあってもよいかもしれない。

恐らく、なかなか無意識の抑圧に気づかないのは、家庭内のことだろう。もしかしたら、気づかないふりをして自らの脳を保護しているのかもしれない。