宗教、哲学、原理

厳密ではなく、倫理的なものを概略で区別する。代表的には、殺人と挨拶程度の作法を考えてみる。殺人も挨拶程度の作法も、宗教は神の教えとして、哲学は思想として、原理は何がしかの原理として、いけないこと推薦されることと扱うと考えてみる。神の教えに反する行為として、思想ならその思想に納得することで、原理はその原理に納得することで、抑止力或いは誘因と考えられる。殺人は別にして、作法はより良い作法が生まれるかもしれない。その時、神の教えは容易ではない。思想の場合も、その体系との整合性を改めて確認する手順が必要そうだ。原理は、単に新発見の検証で済む。要するに、流動性の観点で複雑な変更に対応可能なのは、原理と考える。敷居の高さも、宗教は聖者、哲学は大家、原理は一般人、と原理が低い。共有化の観点で、宗教は他の宗教と、哲学は別の思想と、容易には相容れないが、原理は単に事実に相違はない。ただし、事実に対する評価は短期的には必ずしも一致しないが、長期的には収斂の方向と期待される。ここまできて、なんとも誘導的に感じる。率直な言葉にする。殺人は、社会的貢献の可能性の途絶という損失とする原理を仮定する。作法は、他人の寛容を通じた競争の結果を獲得できるという原理を仮定する。というような、原理の追求を考えている。自殺も含めて、仮定に含められる。