日本語特殊論仮説

社内公用語を英語にしようと考えた人の話で、他の会社のフランス人も母国語より英語の方が取引には都合が良いと賛成していたらしいが、理由は、フランス語は厳格で契約時に詳細を詰める時間がかかるが、英語は比べたら曖昧なので、割と円滑に契約出来るということのようだった。

これを読んで日本語は、英語よりもっと曖昧だと考えた。以下、それからの仮説だ。根拠はないが、ある程度納得している。

日本語が曖昧なのは、会話する相手との共有情報が多いからではないだろうか。または、共有情報が多いから、曖昧な言葉で十分通用することになったのではないだろうか。この因果は互いに影響を与える関係で、よりその性質が強化されたと考えた。

このことから、村社会と言われるような仲間意識が自然と醸成されてしまうことにつながっているように思う。会社とか組織への帰属意識とか、業界秩序とか、色々ありそうだ。仲間の悪事を見逃す意識も、規範より優位に働いてしまうのではないだろうか。

その仲間意識がどこから生まれるのかは、わからない。単に長く接するだけで生まれるというより、一つの仲間意識を共通に持てる「何か」の存在だと思う。例えば、通勤電車の同じ車両にいる人間同士に通常は仲間意識は働かないが、事故とか何らかの理由で長時間停止していると仲間意識が徐々に生まれてくると思う。その時、誰かの困りごとの解決には、多数の助けたいとする気持ちで一斉に生まれる気がする。

空気が読めないという言葉も、状況を説明不要とさせる力と解釈出来る。説明は、粋ではないという流れもあるかもしれないが、意を汲み取れることが重要な能力で、多様な状況の可能性を考え出すのは、その能力から遠い存在と暗黙に見なされるのが、その言葉には含まれる。

この日本語を使用する良さと、欠点があると考えてみよう。良さは、常識と帰属の効率が良いことだろうか。欠点は、単純な価値観の社会から複雑で多様な価値観の社会に変化する流れには都合が悪いということだろう。

ある局面ある期間といった部分解が了承されるのは、その部分解が経験的に多数の支持と解釈されるからで、反例を経験すると、固有状況としての部分解を求めるか、より拡張した範囲での一般解を求めることになると想定出来る。

この変化に無意識に気づいて、グローバルな価値観に解を求める者もいるだろう。意識出来て探索に励む者もいるだろう。気づかずに、空気を読むことに励む者もいるだろう。どれが正解かは、わからない。

では、日本語の欠点を了として、その克服の解は何かを考えてみよう。修正、使用方法、補完といったものが思い浮かぶ。

修正は、日本語を強制的に変更するものだ。或いは、口語、文語と同列のような語法を編み出すことが考えられる。

使用方法は、語法もあるが、直接的効果を狙う方法で、具体的説明を励行することだ。当然、抽象的言葉、キャッチコピーとかは忌避される。

補完は、例えば、数学をより高度な内容まで必須とするようなことだ。これはこれで、望まれる。

逆に、この日本語をこれからの価値ある言語と考えて、より世界に普及することを狙うことも考えられる。これが、恐らく支持されると予想する。意識しての支持ではなく、市場原理による結果としての支持と考える。つまり、デジタルの世界が普及すると、色々なことが説明的になり、詩的な世界とも言えるような、発言者の世界を尊重する考え方が、自然に身につく言語としての日本語が歓迎されるということだ。多分に希望が含まれるだろうことは承知している。

無理に考えている訳ではない。これらは、日本人が特殊だという話を、どうにか理由付けしようともがいた結果ではあるが、結果に対して無理という感触にない。ある程度納得している。これから、根拠を収集しようか、誰かの収集を待ってみるか、そんなところだ。