昭和

もう四半世紀過ぎてしまった。歴史と感じるか、現代と感じるか、感覚の違いはありそうだ。

戦争、高度成長、バブルといったものが語られるのだろうか。よくわからないのが、学生運動だ。わからないのは、その熱意の根源のようなもののことだ。

今、FMで昭和の歌が流れている。知らない歌ばかり…

昭和を歴史と感じることを否定はしないが、現在に続いていることが数多くあることを考えると切り離された時代と認識することも出来ない。

よくなったこととその頃の方がよかったことがあるのだろう。よくなったことは沢山あるが、変わるべきことが変わらないことも多いと思う。その頃の方がよかったことの一つに、財政の健全性があると思う。皮肉だ。

昭和最後の年は、世界的にも色々あった。時代を象徴する区切りだったのかもしれない。

昭和と現在の違いは色々あるが、違いの理由は支持されているからだろうか。そこに疑いをもっている。明確に支持した経緯があるというより、時代の推移で現在に至ったという感覚でしか思えない。

そして、そのようないつの間にか時代の変遷を経験していることは、今後も続くと考えるので、主義主張の類が時代変遷の要因になるという解釈にならない。

数多くの個人の意思の集合の結果が要因と考えるからだ。四半世紀の経過からも、その確信を持つが、もっと強力な理由は、発展は様々な選択肢決定の積層によるものという基本認識を持つからだ。その各選択肢の間に何らかの関係の可能性はあるが、多分多数の積層での傾向を読み取るくらいの難しさだと思う。

さて、昭和を語ろうか。いや、やめよう。

選択肢決定の傾向を考えると視野の狭さが気になる。別の表現では、反射神経的判断が主流であることに危惧する。より深みのある思考を求められる機会がないのか、逃避しているのか、何かそのような浅さが恐ろしいと思う。

例えば、担任教師が自分の子どもの入学式を優先した件で、深みのある思考という感じがしないのだ。自分の考えで語るというより、誰かの結論を支持するということに様々な考えをめぐらしたとは思えないということだ。

極端に言えば、過程と結果に分けると結果重視に偏っているような気がしてならない。

また、タイトルから離れてしまった。でも、この不安は、経験的には確信を深めている。というより、払拭する経験がない。多分、問題意識が変わっていないのだろう。

四半世紀、十年といった時間軸で考えることも、たまには必要なのだろう。まず、必要と感じなければ、その時間軸の考えは浮かばない。難しい。