民間機撃墜

戦国時代で、なぜ天皇制は維持されたのか、納得する理由にたどり着いていない。それほど天皇制を大事に考えていたのか、それがよくわからない。いわゆる、武力だけでは天下をとれなかったのだとは理解している。

第一次世界大戦の様々な理由も、百年経った現在でも共通の理解がないようだ。ただ、現代の学習材料としては色々あると思う。突発的な些細な出来事が破綻に至る事態に向かってしまうことを忘れてはならないだろう。

民間機を撃墜したのは、親ロ派かロそのものがどうも有力なようだ。ただ、明確な証拠がない為、いかようにも解釈出来る微妙な状況だろう。

現代人はホモサピエンスで、他のホモサピエンスに近い系統は絶たれている。それをある科学者が原罪と称していた。

また、新大陸発見以前に南米に存在していた文明を破壊したことも、歴史から学ぶべき反省材料だろう。

原罪と言い、数々の歴史の反省と言い、一気に暴力的解決手段に至る可能性を予感させるものだ。つまり、戦争という状態から見れば些細な出来事は、常に戦争の抑止努力が欠かせないという共通の理解をもたらせるのだ。

抑止としての努力は、直面する個別事態への短期的対応と一般論としての恒久的対応というものがあると思う。

キューバ危機は、大惨事の第三次世界大戦を回避した歴史として学ぶ必要があるだろう。直面事態への対応は直接には世界の指導者によるものが、関心を持つことで支援することになると考える。

恒久的対応としては、整理出来ていないが、戦国時代の天皇制維持の理由に通じると考えている。それが具体的に何かはわからない。恐らく、上の関心を持つことが支援になる理由と同じようなものだろうと考えている。

それにしても、大韓航空の事件での自衛隊の傍受の話と言い、撃墜能力の話と言い、参考になる。確かに、傍受能力を明るみにする危惧とミサイル撃墜能力診断からの武装解析は、どこまで軍事的共通の知識なのだろうか。

高度と飛行速度から考えると発射時に全て制御するのは、かなり難しいと思う。勿論、それらの技術を全く知らないので推測するだけだが、上空の風の状況で途中の制御をしないで目標に達することがどれだけ難しいことであるか、くらいは感じとれる。

ということは、追尾機能があるか、上空の正確な観測が民間利用よりかなり進んでいるか、そんなことを想像する。どちらにしても、テロリストの装備品ではなさそうだ。追尾機能は、ありえるのかな?

どこまでなら、どんな反応があるのか、みたいな試みは、第一次世界大戦を想起する。どれだけ危険なことなのか、当事者とみなされる立場からの説得では効果がないだろう。軍事的能力を保有する国の指導者は歴史を学ぶ必要があるという理由を示すものだろう。

その意味で、日本の指導者も偏らない歴史を学ぶべきだろう。そして、国民は歴史を学ばない指導者を選んではいけないのだろう。選ぶ過程も大切だが、除く過程も大事ということになるかもしれない。

ドイツとかの5%ルールは、そんな歴史の重みから生まれたのではないだろうか。

一方で、民間の活発な経済行為は円滑であるべきだろう。リスクを的確に恐れる経験が積み上がるのは大切なことだと思う。的確に判断する為には、情報収集が基本だ。経験とは行動の痕跡だけではない。やってないことにこそ経験として残す必要があると考える。