理論と実際

理論とは、純粋に構築できる状況で表現することと考える。純粋でないとは、表現に含まれない事象が存在する実際のことである。具体例として、りんご一つと二つを合わせると三つという例でいえば、1+2=3という足し算は理論に相当し、りんご三つは実際に相当する。つまり、単に個数という捉え方に限定するなら足し算は成立するが、大きさや品質といった個数以外の意味合いを持ち込むと途端に足し算の成立は保証されない。粘土の一塊ともう一塊を合わせたら、大きな粘土の一塊になるという指摘は、まさに理論と実際の違いなのだ。実際の場面で有効ではないから理論を否定するのは、愚かしい所以である。逆に実際の場面で理論を断定するのはかなり限定的といわざるを得ない。恐らく、理論を保証するのは検証の可能性に委ねられる。検証の困難の度合いによっては、単に支持の多さだけが成立根拠となりうる。検証の困難な代表は人間の思考だろう。哲学、宗教、社会、といった分野になるだろう。つまり、そこには漸進的進歩の匂いより革命的進歩或いは途絶の匂いが強そうであり、支持の断片化も強く推測できる。脳内概念の体系は、基礎部分を否定する理論の登場により体系自体を大きく覆されうる。また、脳内概念の共有は相当程度の疎通以外の経由が想像出来ない。従って、疎通の密度が支持断片化の理由と考えられる。こうしたことから理論の検証可能性の困難さに対して謙虚の姿勢が必要と考えられないだろうか。