オズマ問題

オズマ問題とは、宇宙人に左右を言語だけで説明するという問題で、初めて聞いた時は、仕事で忙しく言葉の並び方で説明可能だとして深くは考えなかった。言葉の並び方での説明は、なんとなくずるい感じはする。似ている話としては、鏡の左右反対だ。通常の垂直の姿勢から、横になって水平の姿勢になっても、鏡に映る姿には左右反対に見えて、上下反対には見えない。つまり、左右反対の認識は人間が感じてしまうバイアスのようなものだと考える。あまりにも当然だから、言葉で説明する必要性すら感じないかもしれない。上下については、会話する相手と互いに無重力状態にいる時には、共通しての位置方向にはならないだろう。しかし、左右については相手にとっての位置方向は認識できると思う。あまりにも当然視される概念は、人間共通ならば恐らく問題は顕在化しない。しかし、文化的とか色々な理由で当然とされる感覚が全く異なることも多いにある。実際経験した些細なことがある。CDの手での受け渡しで、持ち方が互いに異なっていた。相手は手が小さく、中心と外縁部を片手で持ち、それを、片手で外縁部だけ持とうとしたら、ちゃんと持って欲しいようなことを言う。何が問題なのか全くわからなかった。相手は、そんな持ち方すら想像できなかったようだ。同じく想像できなかった。わざわざ指を入れる手間が理解できなかった。この例は、些細なことであるし、異なる持ち方への批判も起きない。しかし、そんな例ばかりではないから、世の中は騒がしい。批判する気持ちすら感じることなく、当然の認識を相手に受け入れさせてしまうことは結構あるだろう。難しい。そんな例かのように、知らない振りをする場合もあるかもしれない。何が良いことなのかは、わからない。少なくとも、そんな当然が当然ではない事態も想定する相手とは、仲良くできそうな気はする。ここで思い出したことがある。時間軸として、未来方向に対して、先も後も使うのは、おかしいと思う。数年後も数年先も、どちらも同じ未来だ。位置としての前後方向では、全く逆方向なのに。脱線した。一度戻ろう。苦手な人間は明確だ。単純で、その単純な認識以外の想定がなかなかできない人間は苦手で、どうも、この当然という認識が恐ろしく厄介だ。それ以外の認識の存在の説明と、意見の正当性の主張を混同してしまうことも面倒だ。特に、相手が上位の立場に対しては、苦労する。この苦手な人間は、なんとなく匂いがするから、極力関わらないようにしている。仕事で関わる場合は、極力口頭での会話は回避して、文書でお願いする。問題になった時に役立つ目的もある。もう一度戻ろう。仕事を離れて、色々な人間と少し深く付き合うと、この当然という認識を改めて感じる機会になる。面白いと思う。相手の当たり前の存在が理解できたら、柔らかくなった証拠かもしれない。