限界突破

限界突破を妨げる存在の代表は、満足だろう。例えば、努力には制約がつきものだが、制約がない状況では、設定に応じる。その設定は、努力に要する資源制約と効果予想、そして、所定効果の範囲外の効果予想に応じる。ここに、使用資源を所定効果以外に使用する理由が作られる。

つまり、例えば、水泳の練習で調子づいて予定より早く消化し、追加練習の制約がないとして、余裕の時間を何に使うか、の選択の状況としよう。選択は、追加練習または別の有意義な時間とできる。別の有意義な時間が所定効果の範囲外に相当する。考慮の範囲を拡大すれば、そこでいう有意義な時間に振り向けることが適切かもしれない。

しかし、ことを所定に限定した場合は、所定効果を妨げる存在は、この例では、所定効果の範囲外となる。

単純に考えよう。所定と所定外で分けると、所定に限定した評価と所定と所定外の両方を含む広範囲の評価の2つがある。ここで、直ちにどちらかの評価が適切とすることはできない。単に、どちらかを重視した選択になるだけであり、経験的には、広範囲の評価が適切であることが多い。

ここまで辿り着いて、限界突破を妨げる存在に気がつくだろう。その存在は個人差がある。ここでは、満足と考えている。所定に限定してみれば満足できるから、所定外に使用資源が振り向けられる。

ここで、直ちに何かの結論に達することはできない。理由が理解できて、その原因を取り除くことが適切なのか、その理由のまま理由を知らない状況での判断と同じとするのか、その選択が可能になっただけである。

ここで、選択の結果を大事と考えるのと、選択が可能になった発見が大事と考えるのと、その違いが見逃されるか、見逃さないかの分岐点だと思う。

恐らく、物理的に選択の制約がある場合には、選択の自由より選択した結果が大事とされ、思考のような選択に制約があまりない場合に、選択の広がりに重要な価値をおくだろう。

そのような話の流れでいけば、思考上では選択を多くすることが大事とするよりも、限界突破に気づくことが大事とすることに結論をおけば、誘導となるのだろうか。

なんとなく納得した気持ちになるよりも、理屈を積み重ねて他人に説明できる程度に理解するなら、誘導とは言えない。

他人の理屈をなんとなく承諾することを誘導とするならば、一つの目安は他人に説明できる理屈があるかどうかだろう。誰々が言ったことが直ちに説明の材料となることは、どのように理解すればいいだろうか。考えれば、自明だとは思う。

個人的な反省材料を情報提供しよう。先の証明の失敗は、ある結果が直ちに自明と考えたことによる失敗であった。恥ずかしいから、削除したい気持ちは十分にある。しかし、それより重要なことは、論理の飛躍を肝に銘じる必要性だ。そこでの限界も、満足かもしれない。

なぜ、直ちにその結論に達するのかを問いたいと思うことは少なからずある。不問とすることが多い感じはする。何が適切なのかは、状況次第だろう。

だから、個別状況で考えるよりも、一般化して考える機会は重要だ。但し、その結論が個別状況に直ちに有効とは言えない限界には注意を要する。