行動最適化

人間というより、一般化した知能として、行動の最適化を考えてみる。単純に評価の高まる方向への行動となることは想像出来る。では、その場合の最適化とは何だろう。また、その評価とは何だろう。

一般化した知能にとって、評価も最適化も抽象概念でしかないだろう。ということは、例えば、評価軸が数通り存在し、それぞれの評価軸に対して数通りの行動があると仮定するとわかりやすいかもしれない。

つまり、この場合、評価軸の選択を先にして行動の選択をその後に行うと直ちに断定することは出来ない。恐らく、数通りの評価軸での数通りの行動の結果の予想を比較して選択する方が最適な選択と考えられるからだ。ここに、突如として結果予想という概念が登場した。しかし、最適化とは何かの比較結果と考えるなら、予想という概念は当然ではないだろうか。

さて、その最適化選択は、知能の一般化を抽象的に思考した考えだが、俗な人間にも適用出来るだろうか。

以前に出た一円玉を数える方法はどうだろうか。実際に取り組むと際限ない話になるから、三通り程度に限定してみよう。この際、三通りの中身に意味はない。

方法の方向性として、正確に数える方法、時間的に短い方法、他に応用出来る方法、としてみよう。評価軸は、正確さ、時間、応用性、としてみよう。

それぞれの行動を考える訳だが、煩雑になるのでそれぞれ一つにしてしまう。つまり、硬貨計数機使用、硬貨定数積み重ね、重量測定、とでもしておこう。

この場合、最適化とは、結果予想の比較だが、それぞれの評価軸だけで評価するというよりも、三つの評価軸で評価することを考えることが思い浮かぶ。また、使用資源、つまり、費用とか、独創性とか、そのようなことも思い出す。

応用性は、とりあえず、ハガキと砂粒で応用出来そうか、みたいなことで考えてみよう。

俗な人間として考えるから、とりあえず素直に最適化選択をすると、重量測定だが、他の方法を否定する訳ではない。というよりも、他人の最適解とは異なるだろうし、重視する評価軸も異なるだろう。つまり、当人の最適解は存在しても、普遍的な最適解は存在しないと理解する。

これを多様性と解釈して良いだろうか。恐らく、その解釈で通用するだろう。しかし、当人の最適解は恒久的だろうか。時間的変化の可能性はあるだろう。その場合、変化要因は時間と理解することが適切だろうか。恐らく、評価軸に対する変化のようなことと理解することが適切だろう。つまり、何らかの影響という概念が登場した。

回りくどいという声が聞こえてきそうなので、もしかしたら誘導的かもしれないが、少々話を飛躍する。

何らかの影響とは、周囲の人間や何らかの情報、つまり、文化みたいな環境と考えて、行動の最適化とは、その文化的環境に大きく影響されると考える。

つまり、例えば、入試の合格を唯一の評価軸とするなら、その努力貢献要素とならない知識に関して努力は期待されない、といったことが容易に想像出来るだろう。

それは、近所や社内、社会での評判、様々な処遇、負担等々を評価軸として、行動の結果予想の比較といったような、つまり、行動最適化として通常に選択されていると考えられる。その環境が定着していれば、環境変化は行動の変化要因ではあるが、環境変化に対する抵抗が予想出来る。

ここまでは、結論を誘導しているつもりはないが、これから先は誘導の可能性が高くなるので中断する。

ただ、なんとなく、色々なことがひとまとまりで説明出来そうな気配を感じている。それは体系的な説明になりそうだ。

あるものを系として捉えるなら、こちらが立てばあちらが立たず、みたいな関係が密接に想定されるから、部分的に評価することが不自然に思える。それは、別にゲーム理論の改善のようなことを直接述べている訳ではないが、近いことは事実だろう。

他国を見てると自国のことが良く理解出来るような気がするから不思議だ。良い面は素直に、悪い面も素直に勉強になるからだろうか。それとも、単なる誤解だろうか。