周囲の目

昨日のテレビ番組で、幸福学をやっていた。欧米に比べてアジアでは周りの目を気にする、としていた。

雑誌のコラムで、ネットでは偽善に対する悪口がすごいということだ。

この二つに、何か関連があるような気がしている。偽善の方は、マスコミの論調が偽善であるという認識の前提で、それに対する拒否反応みたいなものということらしいから、本音ではないこととか、自分を高い立場とするような発言が攻撃対象になるのだろう。

関連すると感じたのは、偽善にもこの周囲の目ということが、暗黙に存在するからではないだろうか。

では、ネット上の発言では、自分の立場を中立にするとか、そのような配慮が必要なのだろうか。攻撃は、その内容よりも動機を考えないと、見失ってしまうと思う。

つまり、攻撃したくなる何かが、攻撃対象の発言に含まれるのだろう。それが偽善なのだろうか。偽善を感じさせる発言者の立ち位置としてみよう。発言の意図は別として、発言に立ち位置を感じさせる何かがあると考えてみる。

極論してみよう。わかりやすくする目的であって、誘導の意図はない。より強調するなら、発言の解釈において、発言に立ち位置を感じさせる何かがあるということなのだろう。解釈する者の立ち位置との比較があると考えると、立ち位置だけを考えるとわかりやすくなるかもしれない。

つまり、解釈する者を低くみる発言と感じるのではないだろうか。

整理しよう。極論をさらに極論すると、立ち位置の違いに強い関心があり、自分を低くすることは即ち自分が攻撃されているとみなすことになっているのではないだろうか。

再度整理しよう。自分の存在を否定することに対しては、恐怖のような負の感情を発生させると考えているが、それは以前からの話ではある。その負の感情を発生させる状況と同じような状況が、立ち位置を理由として自分を否定するかのような発言にもあるのではないだろうか。

ちょっと複雑になってしまった。きちんと整理しないと、わかりにくい。

後日、再挑戦するとして、周囲の目ということには、立ち位置みたいな概念が含まれているのではないか、という仮説が出来たということなのだろう。即座に否定することは出来ない。可能性はあると思う。さて、根拠はどこにありそうだろうか。