反対票

今朝の新聞に消費税増税への二人のコメントが載っていた。

今日も飲んでいる。しかし、かなりまともだと思う。そうかな?

読んで思うのは、クリティカルな制約へのbiasということだ。何かの障害理由が複数あるとして、その中の決定的な理由を除去すると全部を取り除ける思いになるようなことだ。

デフレを解消出来ると、悪循環からようやく抜け出せるという思いが強いと片方から感じた。デフレを現象とみるのか、要因とみるのか、そんな違いがあるように思える。

そうだ。まず、立場を明らかにしよう。現実というより、真実を追求する観点では、デフレを現象と捉えて、金融政策の目詰まりから限界を感じている。そして、デフレ現象そのものが正常という立場だ。まずは、経済の源泉である向上する努力が基本で最初の手と考えている。だから、その立場からは、明らかに反対票の立場に立つ。

しかし、個別状況という現実を前にすると、反対票を投じても結果に従う環境を所与とする立場だ。だから、追い風勢力に立つ立場になる。反対票の重みは十分理解しているからだ。

かなり、複雑な思考かもしれない。でも、それが不自然に思えないのも事実だ。

そして、外国人のコメントに、やはり信用出来ると改めて思った。1%ずつ上げるとか、雇用規制とか、今の政治家に責任を感じないとか、そんな発言が外国人以外に出来るのだろうか。発想が原理に従うという意味で信用出来ると思う。

それはそれで考えることにして、今後は、放たれてしまった矢に準ずることが適切な行動だと思う。

だから、野党の立場としては、というよりも作戦の補完勢力の立場としては、まず消費税増税を決めるはずだが、決めなければ劇的な批判をすべきだろう。これは万が一の話だ。

だから、決めた後に緩和の失敗、つまり終戦処理に勤しむことが求められる。これは声を大きくする必要はない。むしろ、冷静に準備しなければならないと思う。それが、結果的に準備だけに終わるかもしれないし、準備万端で滞りなく進行するかもしれない。滞りなく進行すると、努力していたことが理解されない可能性は大きいだろう。それでも理解されることを優先すると、円滑にならないと思うのだ。

粛々と終戦処理に勤しむ野党なら、応援したい。しかし、与党の失敗を声高に指摘するつもりなら、応援したい気持ちになるはずがない。国民に向いているのか、票に向いているのか、その違いのようなものだろう。

なかなか理解しにくいのかもしれないが、真実追求の立場は歴史的視点みたいなものだと思う。現実優先の立場は直接の得失を受ける生々しい人間を感じる感性重視みたいなものだろう。どちらかだけが正しいということではないと思う。多分、どちらも正しいのだ。

少なくとも、反対票の重みを知るはずということは、あのようなことこのようなことを考えているはずということなのだ。それがわかるから意気を感じるのだ。それで十分じゃないか。